さわのはな歳時記 1998年11月−1999年12月
杭掛け
1998.11
この秋、生まれて始めて本格的な稲の杭掛けを経験した。私と一緒に影法師で活動する杭掛けのベテラン、横沢を先生に二十アールのたんぼに見事に杭掛けが並んだ。
農業を始めたのが二十五年程前。我が家はすでにコンバインが入っており、杭掛けの自然乾燥は今までやったことがなかった。「さわのはな」という個性的な米に出会わなければ、杭掛けも知らないまま過ごしていただろう。
さわのはなを作り始めて今年で四回目の秋を迎える。さわのはなとの出会いは影法師の酒の席から始まった。メンバーの「さわのはなだったら食べてみたいな」という発言からだった。さっそく知り合いの農家から種もみを分けてもらい栽培を始める。平成七年、横沢と二人で四十アールのたんぼから始まった栽培は、今では三ヘクタールになり、直接お客さんに届けている。
「さわのはなはうまい」というのはほとんど農家の常識。今でも「さわのはなの評判が良くて」と話をすると、年輩の方に「そんげなごどあだりまえだ」とよく言われてしまう。「だったらなしてやめだなや」と言いたくなるが、その後の論戦でのエネルギーの消耗を考えると黙ってしまわざるをえない。
米作りを始めて二十五年、さわのはなのことは私たちも話には聞いていたが、実際に育てたことも、そのうまさを味わったこともなかった。近所の人が作っていたさわのはなを見て覚えているのは、秋になって倒れて畳のようななったたんぼ。さわのはなの全盛期は昭和四十年代。食糧増産の時代で質より量が求められていた頃だ。多収穫の品種が幅をきかす中で「かわいそうな作られ方をしたんだな」と思わず同情してしまう。
杭掛けをして三日目、台風が来た。強風の中、つっかい棒をしたのに十数本倒されてしまった。私は「さわのはな」や杭掛けをその最盛期に経験していない。その大変さやこわさを知らないから始められる。さわのはなの魅力を引き出し、多くの人に伝えるために。そういえば一生懸命手伝ってくれるつれあいも、結婚する前は農業を全く知らなかった。
百姓根性 1998.12
全国的な不作の中、我が山形県は東北地方で最高の101という作況指数が発表された。良質米の産地が軒並み不作で米の買い取り値段がかなり高くなるのでは、と期待した人が多かったが期待はずれに終わった。平成五年の大凶作の年には、当時ヤミ米と言われた米の買い取り価格は天井知らずに上がったが、今年はそうは行かなかった。農家からの買い入れ価格が高くなっているのに米屋さん、スーパーでの販売価格はほとんど上がっておらず、さすがに米あまりの状況を反映している。農家の現状は大変苦しく、高く売れるところがあれば背に腹はかえられず、そちらに流れてしまうのが現代の百姓根性となってしまったようだ。
うまい米、さわのはなを守り続けた百姓根性はちょっと違っていたようだ。さわのはなは収量は上がらず作りにくい。さらに現在行われている外観だけの検査では、肌の悪いさわのはなは等級も低く高く売れない。出荷するための米としての魅力は薄れ生産量が減り市場から急速に消えていった。しかし、自家用の米としての栽培は多くの熱心な農家の手によって続けられてきた。売るための米と、自分たちの食べる米を作り分けてしまう。食管法の下では「この米はおいしいよ」と直接伝える事もできなかった。だからせめて自分だけでもおいしいものをこっそりつくり続けよう。そんな農家がさわのはなを守り続けてきた。本物とはこういうものではないか。これも百姓根性であろう。
新食糧法となった今でも、こうした本物を伝えるにはかなりのエネルギーを必要とする。しかし、何も考えず米を作り続け、他所の不作で高値を期待する生き方には未来はない。本物を喜んで食べてくれる人との出会いを求める百姓根性を持ち続けたいと思う。
産 直 1999.01
1999年を迎え、私の参加する影法師も足掛け25年目を迎える。
四半世紀もの間、活動を続けられたことに感謝している。結成当時は感情をストレートに出した歌が多く、力が入り過ぎ歌っている方も聞いている方も疲れる演奏だった。あれから25年が過ぎ、私個人の歌から、人にメッセージを伝えるための歌に変わっていった。
1991年「白河以北一山百文」の発表を機会にカセットテープの販売を始めた。カセットの販売本数はこれまで三千本を越えている。店頭での販売はもちろんであるが、ほとんどが年間、四十数回ある演奏の機会に販売してきたものある。
カセット販売を始めた時期と同じ頃からお米の直接販売を始めた。きっかけはコンサートの会場で「君たちの作ったお米を食べてみたい」と、ことばをかけられた事だった。わずか十数人から始まった米の直販は今では250人を越える方々とおつき合いをさせていただいている。約半数の方が影法師の歌を通して出会った方々である。
この間に食管法から新食糧法に変わり農家が自由に米を売ることが出来るようになった。私たちもコンサートの中でカセットの販売に加えて米の販売を始めた。影法師のコンサートは米、酒(鄙の影法師、PRのみ)、カセット、最近はCDまで加わって産直のオンパレードの様相を呈している。
影法師の今年の歌い初めは、なんと東京「銀座お米ギャラリー」。全国の有名な米の並んでいる中で歌+産直でメッセージを発信してくる。
種 籾 1999.2
今年も作付けの計画を立てる時期となり、さわのはなの種子の問い合わせが相次いでいる。さわのはなは山形県で生まれた品種としては希にみる長い間、県の奨励品種としてがんばっていた。しかし、作付け面積の減少とともに平成9年についに奨励品種から外された。
奨励品種から外れるということは、格付けが下がり高く売れなくなるということだけでなく種子の生産も終わることを意味する。種子のない品種は急速に消滅して行く。種子の供給がなくなるとともに、私たちのところへ農家や米流通業の方から種子を求める問い合わせが数多く寄せられた。そこで本来は食用として籾のまま保存しているものを種子にして急場をしのいでいた。いわゆる自家採種である。このまま自家採種を続けると品種の特性が変わってしまう。
平成9年、普及センターから分けていただいた500グラムの原種をもとに種子の栽培を始めることにした。種子の栽培は普通の稲作りとは違った技術が要求される。そこで私たちはさわのはなの栽培を始めたときから指導をいただいている鈴木多賀さんに全面的な協力をお願いした。鈴木さんはさわのはなの育種者の一人で稲の育種の専門家である。昔は農家が新しい品種の開発をしたり、種子を育てたりしていたようだが、今では農家が種子の栽培をしているところはほかにはないようである。
わずか500グラムの原種から始まった種子栽培は今年50ヘクタール分の種子として
出番を待っています。どうです、あなたもさわのはなを作ってみませんか。
さわのはなネットワーク
1999.3
久しぶりに農業の集まりで楽しい思いをした。私たちさわのはな倶楽部が呼びかけ人となって開いた「さわのはなネットワーク」である。会の目的はさわのはなの復活である。私たちがさわのはなの栽培に取り組んで2年目、この米は復活に値する。そして私たちと同じ思いを持っている人が必ずいるはずだ。そんな人たちと話をしてみたい。と行動に移したのが「さわのはなネットワーク」である。対象は生産者と流通、行政の関係者に絞っている。
今年で3回目を迎える会には年々参加者が増え、県内一円から30名ほどが集まった。作付けの多い最上地方と置賜地方の真ん中という事で山形市で開催している。遠くは宮城県からの参加もあり話は盛り上がった。助言者にさわのはなの育種者のひとり鈴木多賀先生をお願いし、天候不順だった昨年の稲作の反省から始まり、栽培技術のつっこんだ話し合いがなされた。また、流通業の方からはさわのはなのうまさを生かした販売の実践が報告された。さらに今年の販売用として200俵欲しい、私の所では300俵ぐらい欲しいと、あっとゆうまに500俵の市場が形成されそうになるが、それに勢いよく応える農家がないのがいかにも今の農業の現状を象徴している。もっとも参加した人の中には完全無農薬栽培、有機栽培とかなりこだわっている人が多く、私たち以外にも食べていただく人まで直接届ける人がたくさんいた。
食味計が話題になり、その米を評価するのは機械ではなくなく、その人とその人が耕すたんぼに何回も会うことによって分かるのだという言葉が心に残った。
参加したみんなは、さわのはなへの熱い思いを確かめ合い、またそれぞれの場所で今年の稲作りを始める。
私たちも作付けに先立って今月いっぱい、今年の秋からの米の予約を受け付けている。
鄙の影法師 1999.4
1992年「はえぬき・どまんなか」が山形県期待の新品種として市場に出る時、私たち影法師は「余目の亀治さへ」という歌を作った。
タイトルとなった「余目の亀治」は、百年ほど前、庄内地方の現余目町で百姓をしていた阿部亀治のこと。本間家の小作人であった阿部亀治は、貧乏暮しに耐えながら農業技術の改善に尽くし、優良品種亀の尾を育成した。亀の尾はササニシキやコシヒカリなど、日本でうまいといわれている米のルーツとなっており、はえぬき・どまんなかもその血筋を引いている。この歌が縁になり、亀治のお孫さんにあたる喜一氏から亀の尾の種籾を頂戴し、栽培している。
亀の尾にはもう一つの顔がある。酒米としての顔である。酒米は、米粒が大きい、たん白質の含有量が少ない、心白率が高いなどの諸条件を満たしていなければならない。亀の尾はそうした諸条件を満たし、山田錦などと並んで酒造好適米として珍重されている。そのことは尾瀬あきらの「夏子の酒」でつとに有名になった。
影法師が亀の尾を作っていることを知り、長井市内の造り酒屋、東洋酒造からそれで酒を造ってみたいと申し入れがあった。
1994年春、影法師の亀の尾で造られた酒が、純米酒「鄙の影法師」として世に出、それ以来、毎年仕込みが行なわれている。「鄙の影法師」は純米酒なので、ブレンドして味を調整するようなまねはできない。となると、去年と今年では味が違うのは当然と言うことになる。酒とは生命が造り出すものだということに、改めて気付かされる話である。
今年も新酒の季節となり恒例の「酒蔵・利き酒コンサート」が開かれた、絞り立てのお酒が飲めるし、おまけに影法師の歌も聞ける。おいしい話は少人数の方が良いのだが今年も立ち見が出るほど盛況だった。
かしわ餅とさわのはな
1999.5
4月のある日、我が家に「かしわ餅」が届いた。持ってきてくれたのは川西町にある老舗の菓子店「十印」のご主人であった。届けていただいた柏餅には「本日中にお召し上がりください」と書いた紙がはさんであった。
なぜ、我が家に「かしわ餅」が届いたのかと言えば、このかしわ餅の餅の部分に我が家で作った米「さわのはな」が使われているからである。十印菓子店では柏餅に使う米を昔から「さわのはな」と決めていた。ところが今まで作ってもらっていた人が収穫作業を委託するため変わった品種を作れなくなり、足りなくなった分を我が家の米が補った形となった。
十印菓子店は塩羊羹のおいしいことで有名なお店で、私も何度かお菓子を求めたことがありました。お米を届けにおじゃましたときご主人とそのお母さんに看板商品の塩羊羹の由来や苦労話など様々な興味深いお話を伺いました。
その中で当店の柏餅は「本日中にお召し上がりください」なんですよと言われました。他の菓子店やスーパーの店先で売っているものは製造年月日や賞味期限は書いてあっても「本日中にお召し上がりください」とは書いてあるのを見たことがありません。十印菓子店の柏餅は米の粉だけでできておりすぐに固くなってしまい作ったその日でないと食べられなくなるのだそうです。と言うことは他の店で売っている柏餅は固くならない添加物が入っていることになるのです。そう言われてみると世の中には固くなるはずの固くならないものや、すぐ腐ってしまうはずのものがずっとそのままでいたりするものがあまりにもたくさんあることに気づきます。
長期保存が効くことは経済的には有効ではありますが、私たちの体に必ずしも有用ではないかも知れません。本物の味を生かすため添加物を使用しないと言うのが本来の考え方なのでしょうが、そこから私たちの食を取り巻く状況が見えたような気がしました。今年もこだわりの「十印菓子店の柏餅」にふさわしい「さわのはな」を届けようと気合いを入れ直しました。
十印菓子店の柏餅は4月頃から店頭に並びますのでぜひご賞味ください。来年からは私が作った「さわのはな」が全量使われる予定です。1日に作る数が限られていますので早めにお求めください。
葉山参道 1999.6
10年ほど前から6月の第2土曜日に葉山に登っている。きっかけは、影法師が「葉山参道」という歌を歌ったことにある。
葉山には作神様が住むと言われ、昔から田植えを終えた里の人たちは、苗を手にして葉山に登り、御田代と呼ばれる山頂付近の高層湿原に苗をさして一年の無事と豊作を祈ってきた。草岡、白兎、高玉などから、幾筋もの葉山へ参る道があることは、その信仰がいかに広く地域に根ざしたものであったかということを物語っている。
しかし、人々の生活が忙しくなると、人は山の方を向くよりはお金になる町の方しか見なくなり、昔から受け継がれてきたこの営みも忘れ去られようとしていた。そんな人々の様子を見計らったかのように大規模林道建設の建設が始まった。大規模林道は葉山の山頂付近を横断して行く。
影法師は歌で長井に住む人たちと葉山の関わりを見つめ直そうと「葉山参道」という歌を歌い始め、と同時に、先人がそうしたように稲の苗を持って葉山に登ることも始めた。今から10年前のことである。
その間数回、諸般の理由でサボった事がある。平成5年も何かの理由で登ることができなかった。そうしたら葉山の作神様の逆鱗に触れ、あの全国的な大凶作となってしまい、次の年には米の輸入自由化まで至った。たまたま凶作になったのだろうが、それ以来私たちの登山には、全国の農家のために登っているという責任感がついてまわっている。
毎年様々な人が一緒に登る。昨年は某放送局のテレビカメラが一緒だった。葉山の魅力に取り付かれ、東京から何年も続けて通った人もいる。今年も6月12日に登るのだが、また新たな発見、出会いが生まれるものと思う。
大規模林道の工事も中止となり、きっと笹竹の子の味噌汁と残雪で冷やしたビールが、いつもの年よりも数段おいしいことだろう。
手植えその1 1999.7
今年の春も手植えの田植えを2回も行った。1回目は15年前から続けている体験田植えである。私たちのお米を食べていただいている方、影法師と交流のある方にご案内をして行っている。一方的にご案内を出しているだけで個別の参加のお誘いをしている訳ではなく、参加者はその年の天候によって大きく左右される。大雨の日にあたったときは数株だけ「お田植え」したこともあるし、人数が少なく田植機を入れて「体験田植機」を行ったこともある。今年は天候に恵まれ宮城県からの参加もあり楽しいひとときを過ごした。
参加してくれる方はほとんどが私たちのお米を食べていただいている方である。この体験田植えを通して顔の見える関係になった方がたくさんいる。お米のお客さんはほとんど私たちの顔は知っているらしいが私たちが顔を知っている方は極端に少ない。まして家族全員の顔となるともっと少ない。田植えに参加する方は家族連れが多い。こうやって田植えに参加するとお米もいっそうおいしく食べてもらえるようだ。余った苗を家にもらって行き、プランターで米になるまで育てた人も現れた。田植えの作業は昔は一番きつい農作業であったが今は機械でするようになり植えている本人は一番楽で苗を運んでいる手伝いの奥さん方が大変だったりする。
体験田植えで植えるたんぼは5アールほどの小さいたんぼだがそれでも手で植えると子供を交えた十数人で植えても30分以上かかる。田植えの間、たんぼの中は子供の歓声と奥さんたちのコミュニケーションの場となった。機械化が進みたんぼには人の声の代わりにエンジンの音が響き、足の代わりに冷たい車輪が動き回る。忙しい毎日に、人の温もり、土の温もりも遠くなってしまったようだ。
体験田植えで植えられたたんぼは久しぶりの多くの足跡と明るい話し声に喜んでいるだろう。秋の体験稲刈りにずっしり稔りが感じるようしっかり育てようと思っている。
宮崎県綾町その1 1999.8
影法師は年間40数回の演奏を行うが、その1割程が県外での演奏である。メンバーの年齢も50才に近づき、相当前から日程の調整をしないと4人揃っての県外での演奏は難しくなってきている。
先日、兵庫県赤穂市での公演の機会があり出かけてきた。このコンサートは地元の音楽鑑賞団体の主催によるもので、昨年の末から日程の調整を行い、なんとか4人で行くことができた。赤穂市は今年の大河ドラマ『元禄繚乱』の舞台となっており、観光客が例年の何十倍も来ているそうだ。
歌っている歌の中身を考えれば至極当然のことではあるが、影法師の演奏会を地元で企画してくれる人たちの中には、必ず農家の方が何人か含まれている。そんな地元の農家との交流も楽しみのひとつである。耕作面積の大小はあるけれど、どこへ行ってもたんぼはあるわけで、そして作られている品種は地元のものに混じって必ずコシヒカリが植えられている。残念ながら我が山形県のはえぬき、どまんなかは兵庫県あたりまで行くと一般の人はもちろん全く知らないし、農家でも名前を知っている人がほとんどいなくなってしまう。
コシヒカリは、山形で作ればはえぬきなどの稲刈りを終えてしばらくしてから収穫をしなけらばならない晩稲の品種である。しかし、四国中国地方ではコシヒカリは極早稲となり、コシヒカリの収穫後しばらくしてから地元の品種の刈り取りを行うのである。稲の生育で気候の差をあらためて感じさせられる話である。
赤穂でのコンサートの次の日、ボーカルの横沢と私はテレビの取材のため有機農業の先進地として知られる宮崎県綾町に向かった。綾町の取組については様々な人から話を聞いたり、マスコミの報道等で大いに関心を持っていたので、この取材の話があった時はふたつ返事で受けることにした。
綾町で私たちを待っていたものは、6月末なのに穂が出ているたんぼ。そしてその隣には田植えが終わったばかりのたんぼがあるという、今まで見たこともない光景だった。(写真)この項次回に続く。
宮崎県綾町その2 1999.9
宮崎県綾町で見た6月末に穂の出ていたのはコシヒカリ。今頃日本で一番早いコシヒカリの新米としてどこかの店先に並んでいることだろう。そのとなりで植えたばかりのたんぼはひのひかりという地元の品種である。地元の農家はコシヒカリを自慢しない。日本一早いというだけで、味はだめだと言う。さすがのコシヒカリでも4ヶ月あまりで米になるのでは品種の特性が出ないに違いない。
綾町をまわるとたんぼにネットを張り、アイガモを飼っているたんぼをたくさん見ることが出来る。アイガモに草取りをしてもらい無農薬の米を作っているのである。綾町ではこうした無農薬、無化学肥料での栽培があたりまえのことのように行われている。たんぼだけでなく畑はもちろんのこと、驚くことにハウスでも農薬を使わず野菜を栽培している。私たちが「薬剤の使用は初期除草剤1回だけです」と話すと「綾町では除草剤はだめです」と一蹴された。
綾町の有機農業への取り組みは今の時代のニーズを的確に捉えたもののように思えるがその出発は30年前にさかのぼる。「夜逃げの綾」と言われ全国でも、もっとも貧しいと言われたこの町を、有機農業で「日本の綾」に育て上げたのは今回私たちを案内してくれた前市長の郷田さんだった。郷田さんはその当時、綾町で唯一換金できるものだった照葉樹の原生林を売らずに守り続け、その豊かな山とその山から流れ出る水を大切に有機農業を説いてきた人である。郷田さんは私たちを照葉樹林に連れて行き、かつて農家を説いてまわったようにこれまでの道のりを熱っぽく語ってくれた。郷田さんの市長在任6期の間、大事に残した照葉樹林を国定公園にしたり、豊かに湧き出る清水を名水百選にしたりとその自然を最大源に生かしたソフト面の戦略はすばらしいものと思った。現在農水省がすすめている有機農産物のガイドラインは綾町が昭和63年に制定した「自然生態系農業の推進に関する条例」をすっかり踏襲した形となっており、その先見性に驚くばかりである。
人口7500人の綾町には照葉樹林を見るために年間30万人の人が訪れ、有機農産物の直売所「本物センター」の一日の売上は100万円を越える。一見順調に見える綾市の農業であるが郷田さんは満足していない。「農業は文明ではなく文化出なければならない」という彼の言葉の中に「もっと先を見ろ」と言われたような気がした。
稔りの秋 1999.10
夏がちょっと暑すぎた感じもあるが、稲も近年になく順調に生育し収穫の秋を迎えた。病気の心配もまったくなく、空中散布もしていない我が家では予定通りの低農薬の米となりった。
さて、わが「さわのはな」だが、今年は夏の高温が生育に影響し、穂が出るのが大変早くなりった。これはさわのはなに限ったことではなく、ほとんどの品種で出穂が早まっている。唯一、あまり影響が出なかった品種は「はえぬき」。他の品種が早々と穂が揃ったのにマイペースを守っているようだ。そういえば天候不順だった昨年もマイペースだった。他の品種が軒並み品質を下げたにもかかわらず、一人勝ちで5年連続の特Aというすばらしい品質だった。
はえぬきはネーミングのまずさもあり、一般での知名度はいまひとつだが、品質の安定性が買われ、米の流通業の中では高い評価を得ている。作りやすさも抜群で、倒れにくく、病気にも強い。他の品種より肥料をたくさんやる事が必要で、少しぐらい肥料を余計に入れても、味が少し落ちるぐらいで平然としている。さわのはなと比べると倍近い量の肥料が必要とされ、まるで肥料屋さんが開発した品種かと思ってしまう。おいしさを売り物としているコシヒカリなどの品種はあまり肥料を入れられないし、病気にも弱い。はえぬきは今までの常識では考えられない品種である。
良いことずくめに見えるはえぬきであるが、重宝されるのは一般的な栽培と減農薬栽培までであり、こと無農薬、無化学肥料の有機栽培になったときは困った問題が出てくる。病気には強いので農薬の使用は無くせるが、多量の養分を必要とするので、成分量の低い有機質肥料では肥料の量が多すぎて対応しきれないのである。有機栽培にコシヒカリやさわのはなが多いのは、おいしさだけでなくこうした理由もある。
カメムシ 1999.11
天候に恵まれたはずの今年の稲であったが、米出荷時の検査が進むにつれ、どうも品質が悪いらしいと言うことになった。原因は高温障害による乳白粒(米粒が白くなる)とカメムシの被害だそうである。
今の米流通の最初の段階で行われる格付けの検査は、外観の検査のみで行われる。したがって乳白粒の混入やカメムシの被害が認められると格付けが下がるし、被害がひどければ等外となり、価格が半分になってしまったりもする。
カメムシは、穂が出てから実が入るまでの間にやわらかい実をかじり、いたずらをする。いたずらをされた米は、玄米にしたとき黒い斑点がつく。この斑点はひどくなると白米にしたときまで残り、見た目が悪いということになる。いもち病は品種の改良や予防薬の開発でかなり少なくなったが、代わってカメムシが米の大敵となった。
カメムシもおいしい米が好きなようで、わが「さわのはな」も毎年のようにいたずらをされている。黒い斑点が入った米がまずいかと言えば、まったく影響はなく、見た目が悪いだけ。野菜で言えばキャベツに青虫という具合だろうか。農薬を使わない証のようなものである。
さて、カメムシにやられて黒い斑点があり、等外となって安い値段で買いたたかれた米はその後どうなるのだろうかか。実は、精米する時点で色彩選別機というものを通り、白米に混じっている黒いものは完全に取り除かれ、普通の米としてお米やさんの店頭に並ぶのだ。当然値段は普通のお米と同じ。農家からの買い取りの価格は普通の米より相当安かったのだが…。さて、この差額はどこのもうけになったのだろうか?
テレビ 1999.12
今年の後半はテレビとのおつき合いが多く、十月十五日のニュース13の中継を含めて、なんと全国放送の番組に十月から十二月までの三ヶ月間で三回も出る機会があった。
最近、私たちのことを取り上げてくださるマスコミの方々は、歌で影法師のことを知り近づいて来る。その後、だんだん私たちのことを探って行くうちに歌だけにとどまらない活動を知り、番組に私たちが占める時間が多くなって行くというパターンである。ご存じの通り影法師のメンバーは四人、職業もバラバラ、音楽を除いた趣味もバラバラ、顔と性格はもっとバラバラであるoこのバラバラさが影法師の活動に広がりを持たせている。歌だけが取り上げられていた頃の影法師は、割と屈理屈をこねていたように思うoそれが、各々が影法師の活動から得られた屈理屈を具体化していったことにより、インターネットによる情報発信、ざわのはな倶楽部、純米酒・鄙の影法師と、とどまるところを知らず、様々な形をしたメッセージを発信するようになってしまったo当然メッセージに対するリアクションも大きく、それが新しい歌の原動力となっている。
写真はニュースおの中継の時、キャスターの筑紫哲也さんが私たちに残していったメッセージoメンバー四人がそれぞれにこの言葉をがみしめ、この言葉をどう捉えるかで来年の影法師の方向性が決まりそうです。
今年最後の影法師のテレビ出演は十二月十九日、日曜日午後二時から、ざくらんぼテレビ「みちのくお遍路、いい人いい歌の旅」という番組。歌手の嘉門達夫、タレントの飯島愛さんが私たちとお酒を酌み交わしながら、歌を歌い、歌にまつわる話をするという、最近の私たちにはめずらしく軟派の番組です。
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